「歓喜する」って?(そりゃ、ま、たしかに私も…)_

東京新聞の夕刊連載「アニメ大国の肖像」田代敦巳さんの最終回、「まんが日本昔ばなし」のことに触れてます。やはり、グループ・タックの歴史にゃ外せませんからね。
そこのところだけちょいと無断転載(ご容赦!)。


●田代さんの挑戦心が作品全体にわたって発揮されたのが、「まんが日本昔ばなし」(1975−94年)だ。


アニメーターはみな独自の画風を持っているけど、通常はそれを封印して皆と同じ絵を描くことを要求される。ぼくは以前から「それでは欲求不満がたまるだろう」と感じていた。「昔ばなし」は一本が十一分ほどで、それぞれ話も異なる。ならばと、アニメーター一人に一本ずつ任せました。


歓喜するアニメーターたちを横目に、田代さんは全作品を貫く芯を用意した。
”声”だ。


で、ここから市原悦子さん常田富士男さんを起用する経緯の話になって、ラストの田代さんの言葉が、これ↓。


日本のアニメとは"落ちこぼれの美学”。日本のコミックは社会制度などを否定した落ちこぼれが、自分のこだわりを表現することで伸びてきた。アニメもその延長にある。これが世界でウケたのは、海外の若者も九割がた、落ちこぼれと自覚していたからでしょう。ただ、それは落ちこぼれだからこその価値。アニメをこの国独自のメジャーな文化と声高にうたう今の風潮には抵抗を感じる。そう言った途端、価値がなくなるように思えてならないのです。


なるほどねぇ、田代さんらしい。…私も…その”落ちこぼれ”の一員かぁ…自覚してるようなしてないような…(苦笑)。