「広場」新年号の到着_

おや、メール便が夜に届くとは。昼に友人から読んだ旨のメールが入っていたから「こっちは未だだ」と返事していた。明日以降と思っていただけに嬉しい。
さっそく拝見。今号の表紙は松田朝旭さんの「蟹」。凄いですねぇ、リアルなこの質感は…!原画を見てみたい。
今号は、今年が手塚治虫生誕80年ということで、「あちこち手塚記事特集号」と銘打っています。なので、いつにも増して手塚先生の関連記事が多く、特に、二十数人から回答のあった「アンケート・手塚治虫」を読むと、各項目すべてから会員諸氏の先生に対する想いが熱く伝わってきます。いやぁ、期待にたがわぬ充実の号となりました。こういう特集は主宰の編集の腕が発揮される部分でもありますね。さすがです。パチパチパチ!
読者のおたよりのページに、Iさんが「樋口氏の文章は面白い」と書いてくださってるのを発見、つい、ニヤリ。ありがとうございます。でも、「苦労して書いているんだろうけど」というのは余計です(笑)。
では、その苦労した末の連載記事、前号分を転載しましょう。


並木座ウィークリー」と共に  第六回
──マイ・オールド・シネマ・パラダイス──資料と文 萬雅堂・樋口雅一
 第六回。うーん…正直、並木座の記憶はもう無いなぁ(笑)。この並木座のプログラムは同じ版型で157号までを、以後三分の二サイズにして昭和32年暮れの190号で休刊、半年後に復刊して191号、以降は平成10年の閉館までいろいろと形(と名前も)を変えながら発行し続けたとのことです。カズが遺してくれたのは100号(昭和31年2月)まで。それ以降が無いのは、カズが並木座を辞めてしまったからなのですね。なぜ辞めたのか? ハイ、それは「生活のため」なのです。
昭和29年に次女が生まれ、カズには一家七人の暮らしを背負う重責が…嫁さんと娘二人のほかに、祖父母と私の生活費もありますから大変です。並木座(株式会社だ!)は、支配人、経理担当の他、営業一人、出札(テケツ)・もぎり・案内係の女性従業員六人、映写技師二人、同見習い一人の計十二人の社員で切り回すという小さな小さな映画館ですから、昇給もままならなかったのでありましょう(映写技師長といっても名ばかりですしね)。
少しでもお給料の高い職場を求めて彼は放浪し始めます。先ずは、私たちが暮らす椎名町の家から歩いて通える映画館「目白映画」に移った。私はうろ覚えだが、少しの間はふたたびの同居生活だった筈。
この「目白映画」は私の家からトキワ荘の脇を通って徒歩数分のところに在った映画館で、松竹系の封切館ではなかったかな。東宝映画も上映していた気もするが…私が覚えているのが久我美子主演の「挽歌」だ。扉が閉まらないほどの満員だった。小学生が観たって分かるわけは無いのだが、きれいな人だなぁ、と思ったことだけは(ませたガキだぜ!)。調べてみたら、昭和32年の8月の封切り。ということは私は小学4年生か。
で、この頃から私は映画を盛んに観始めます。家の近くには他にも東映(そういや、第二東映なんてのもあったな)や、たまに新東宝の映画を上映する「長崎東映」と、洋画の二本立て上映の「平和シネマ」という映画館が在り、どちらもカズの段取り(口利き)で、タダで入場していた。顔パスというほどでもないのだろうが、いつだって好きに観ることが出来たのだった。小遣いをあげられない代わりに、せめて映画くらい、ということだったのかもね。
ちょうどこの頃には「東映スコープ」っていうワイド画面の登場だ!東映オールスターの「忠臣蔵」、「大菩薩峠」の片岡千恵蔵、「水戸黄門」の月形竜之介をはじめ、中村錦之助東千代之介大川橋蔵のチャンバラ映画に夢中になり、「白蛇伝」(昭和33年)「少年猿飛佐助」(同34年)「西遊記」(同35年)「安寿と厨子王丸」(同36年)の東映動画作品に触れたのがこの「長崎東映」だったなぁ。
東宝映画では嵐寛寿郎の「明治天皇と日露大戦争」と宇津井健の「スーパージャイアンツ」を覚えてる(吊ってるロープが見えた!)。
「平和シネマ」で観たのは…「砂漠は生きている」(ディズニーの記録映画)くらいか。
松竹系映画では仲代達矢新珠三千代の「人間の条件」(昭和34年)だが、暗いモノクロの画面しか印象に無い…あ、それでも仲代が「覚えておきたい」って新珠の裸を所望するのは子供には強烈だったなぁ! 同じ戦争モノでも、伴淳三郎アチャコの「二等兵物語」には笑いこけてたけどね。
東宝では「ゴジラの逆襲」(昭和30年)がかすかな記憶、「ラドン」(同31年)から胸躍り、「地球防衛軍」(同32年)「宇宙大戦争」(同34年)が最高潮!これ、確か毎年のお正月興行だった。大映・日活は、小学生時代はとんとご縁がありませんでした。ハイ。もちろん洋画もですね(笑)。
さて、カズですが、「目白映画」も長くはおらず、彼は次に西武池袋線清瀬に在る「清瀬映画」に移ります。私は(おそらく6年生)一度だけお弁当を届けに行ったことがあるのだが、なんとローカルな駅と映画館だったことか!駅はプラットホームが低く、スロープから遮断機を抜けて線路を渡って改札に出るという奴だし、小金井街道沿いの映画館は、映写室の脇に畳敷きの小部屋があってね、そこでカズと一緒にお弁当を食べたっけ。だんだんと都落ちしていくみたいな気もしますが(笑)この先、一家の運命や如何に…?
●21号 雛祭 水谷八重子 え(映画ファン提供)
上映作品は「叛乱」(新東宝
脚本・菊島隆三 監督・佐分利信 
主演・藤田進/菅佐原英一/津島恵子香川京子
これ、昭和11年の、陸軍青年将校たちが起こしたクーデター「二・二六事件」を題材とした映画。監督の佐分利信は撮影半ばで倒れ、応援監督として阿部豊が引継いでいます。
映画随筆(その二十一) 監督の言葉 佐分利信
青年将校たちの苦悩、悲しみ、絶望感などを克明に描くつもり。」
と書いてます。
映画ファン教育「常識講座・4」
「映画フィルムは35ミリで一呎16コマ、毎秒24コマ」であることの説明。「ディズニーの漫画映画はこの1コマ1コマを描いて作ったものです。」とも。(1954・3・3)
●22号「豆腐之図」 画と文 小津安二郎
(略)今度は何か一つ、変わったものをやらないか、と、よく人から云はれる。そんな時、いつも僕は、豆腐屋なんだから、精々、豆腐の他、焼豆腐か、油揚げか、飛龍頭しか出来ないのだ、と、返事をする。さう変ったものは、一人の僕からは、生れさうもない。今のところ、うまい豆腐を、うまい飛龍頭を、拵えることだけで一杯だ。変わったものなら、デパートの食堂に行けばある。  (※飛龍頭=ガンモドキ
小津安二郎選集(松竹作品)
東京物語」主演・笠智衆原節子ほか ※詳細は14号参照
「晩春」主演・笠智衆原節子杉村春子
麦秋」主演/菅井一郎/東山千栄子笠智衆
三作共通の出演者が、笠智衆原節子杉村春子三宅邦子
小津一家は…つまり豆腐屋
むろん三本立てではなく、6日間、4日間、4日間のスケジュールでの二週上映となっています。
映画随筆(その二十二)小津安二郎の外遊について 岩崎昶
溝口、五所平、衣笠などが外国へ出ているが、小津こそ一度ヨーロッパに行ってきて欲しい!そして帰国後の彼の映画が見たい。日本の外から日本を振り返っての「ニッポン物語」を期待する。
…という主旨の文ですね。「余計なお世話だ!と言われるに違いない」とも書いてます(笑)。
「支配人室」 休憩演奏用レコードは、ビクター、コロンビヤのご好意により、両社が毎週交代で無料提供して戴いて居ります。(1954・2・10)
●23号 下田 絵と文 伊豆肇
上映作品「唐人お吉」(京映プロ)
脚本・依田義賢若尾徳平若杉光夫 監督・若杉光夫
主演・山田五十鈴/下元勉/嵯峨美智子
黒船でペリーが来航して三年目、総領事として伊豆下田にやってきたハリスと、下田の芸妓お吉の物語。
併映「北斎」(青年プロ)※美術映画
演出・勅使河原宏 セリフ・河原崎長十郎武者小路実篤
映画随筆(その二十三) お吉はいまでもいます 山田五十鈴
「お吉の物語は決して幕末だけの悲劇ではない。私たちのまわりには、いま数知れないお吉がいます。日本の運命を左右する大切な政治の場所に、たくさんのお吉が、どん底の行く末も見ずに、うごめいているのではないでしょうか。そして日本人全体がお吉の運命にされようとしているのではないでしょうか。」(抜粋)
うーん、鋭い! (1954・3・24)
●24号 監督一年生の辦 田中絹代
ディレクターチェアに坐る、この監督姿の田中絹代を描いた絵は、映画世界社直木久容氏の提供とのこと。
上映作品「恋文」(新東宝
原作・丹羽文雄 脚本・木下恵介 監督・田中絹代
主演・森雅之久我美子香川京子
米兵相手の恋文を代筆するという、丹羽文雄の新聞連載小説を女優・田中絹代が初監督(渋谷道玄坂「恋文横丁」の由来記)。
成瀬巳喜男がその仕事ぶりに賛辞を贈っています。
映画随筆(その二十四) 「田中絹代さんのこと」香川京子 
「私の尊敬する方」として書かれたこの文章、復刻版の脚注によると、当時香川さんが話されたことを起こしたもので、本人が直接書いたものではないと、今回ご本人から申し出があったそうです。半世紀を経た今に出たエピソード。これも凄い!
(1954・3・31)           (つづく)