「虫プロにおいでよ」_

同人誌表紙 坂口尚三・画

坂口尚三のそんな言葉に、半信半疑ではあるもののとにかく一度はと訪ねてみることに。
すると、どう段取りされていたのか「じゃぁ、一応簡単なテストを」「ええっ?」いきなり動画机の前に座らされます。「ジャングル大帝」の主人公レオを何ポーズか描かされて…そのときの応対は制作のもりまさきさん(のちのマンガ家、真崎・守)。
「じゃ採用です」即決でした。キツネにつままれたようとは正にこのこと。
実はすべてが坂口くんの根回し済み。彼は天才アニメーターとの呼び声高く(事実、手塚治虫も彼を絶賛しています)、このころ既に原画マンとして一つの班を受け持つほどの立場だったのです。その男の紹介ならと、私の採用は半ば決まっていたみたい。昭和41(’66)年3月1日付けで入社となりました。待遇も新人でなく経験者扱い。そして、なんとそのまま「ジャングル大帝・坂口班」の動画として配属されたのです。このとき彼は私の友人から一気に「先輩、上司、そして先生」となったのでした(笑)!もうすっかり頭上がりませんよ。ほんとのところは、日本初のカラーテレビアニメ番組「ジャングル大帝」の放送開始(’65年10月6日)もあって、虫プロ自体も人手が欲しかった時期だったのだとは思いますがね。同じ班の先輩が西村宏(緋禄司)さんと谷沢豊さん。(そして後に小林準治さんが入社してこれに加わります。)この坂口班は「ジャングル大帝」の制作途中で急遽「鉄腕アトム」の制作を手助けするということになって揃ってスタジオを移動、「アトム」最終回(’66年12月31日)に向けての半年ばかりを作業することになりました。高校1年の時、試写会で見たのはアトムの誕生。そして、太陽に突っ込んでゆくアトムの最後を、今度は現場で自分が描くことになろうとは…実に感慨深いものがありましたね。(エンディングタイトルに自分の名前が載ったのもこの最終回が初めて!)
次の作品は「リボンの騎士」(’67年4月2日〜’68年4月7日)です。このときから坂口…坂ちゃんと呼ばせてもらいましょう。坂ちゃんは演出に、私は原画になりました。同じ班のままです。いつも一緒。この頃は仕事を離れても年中つるんで遊んでましたね。坂ちゃんが愛車の真紅のホンダS800でジムカーナに参加するのについていったり(もちろん彼がリーダーだから)、お酒や、時にはマージャンなんかも(唯一私が勝てた・笑)。
それでも、虫プロ商事の雑誌「COM」の創刊(’67年1月〜’71年12月)もあって、坂ちゃんは次第にマンガにシフトを始めます。徐々に離れていくのは必然でしたね。だって、彼ほどの圧倒的な才能の持ち主が、アニメの一演出でとどまってるわけがない。ほどなく虫プロを去り、マンガ家坂口尚の誕生となっていくのです。私は恩人をただ見送るだけ。でもその後ろ姿は眩しかったですよ!ありがとう坂ちゃん。(彼とは数年後、私のシリーズ初監督作「まんが偉人物語」(’77年11月18日〜)で再会を果たします。この話はいずれ)彼がマンガ家になったばかりの頃のエピソードが、「すがやみつるの雑記帳」というサイトに最近紹介されています。ちょうど、このつづきのような展開になってますので、是非訪ねてみてください。
http://www.m-sugaya.com/blog/ の11月13日付けです。(私も書き込みしちゃいました)
画像はマンガ同人誌の表紙(’63年8月)。17歳になったばかりの頃の坂口尚三の絵です(これって許諾要るのか?いいよね坂ちゃん・笑)。