アニメとマンガ。_

私がアニメ業界に入った頃は、マンガ家も実は隣り合わせのような存在でした。
竜の子プロには「静画部」というのがあって、こちらでは雑誌連載の仕事をしていました。社長の吉田竜夫さん、専務の九里一平さんはもちろんマンガ家でしたし、天馬正人さん、中城健太郎さん、内山まもるさんなどが在籍。
「動画部」の笹川ひろしさんにしても以前に手塚治虫のアシスタントをしていましたし、原征太郎さんは別の名前で(確か安松建夫)劇画も経験しています。永島慎二さん(「漫画家残酷物語」「フーテン」等)が新車のお披露目といって竜の子プロに遊びに来た時には、間近に見る「マンガ・劇画少年憧れの人物」にクラクラした記憶があります。
翌年、虫プロに移るとその永島さんが「ジャングル大帝」で演出を担当されていて、直接お話も出来ることに。ご自宅にも伺えた!(後年、弟子入り志願したらあっさり断られちゃいましたけど・笑)
どろろ」の作画監督をやられた北野英明さん(のちにマージャン劇画で名を馳せる)は、この頃読み切りの少年マンガを時々発表されています。プライベートで手伝いに駆り出されて、初めて生の原稿にペン入れ(もちろん岩場とか海、草原なんていう背景)をした時はドキドキものでしたね。
虫プロの駐車場の脇には村野守美さんの仕事場がありました。
社員の中にも私のように、かつてはマンガ家志望だった若者がたくさんいたのです。(いちいち名前は挙げませんが、同人誌や劇画単行本の投稿欄などで見知った名前の、あの人もこの人もといった具合に…)
虫プロには手塚治虫のマンガのためのアシスタントもいましたが、仕事場は先生の自宅だったし、我々アニメーターとはちょっと立場が違って、個人的な交流はほとんどありませんでしたね。一度だけ、「虫プロダクション・サイン会(2日間)」というのが大阪の阪神デパートで催されて、何故か私と、先生のアシスタントの2人だけで出張というのがありましたっけ。(色紙を抱えた子供たちがずらり並んで、一日中手塚キャラクターを描き続けるというしんどい仕事だった!)
まぁ、この頃は私もアニメが面白かったし、マンガ家というのは憧れではあっても正直、自分には現実的でなかった。実は私、高校1年の秋に手塚治虫のアニメに出会う(前述)前の、その年の夏休みをすべて費やして全72ページものマンガを一気に描きあげ、出版社(講談社と光文社)へ持ち込みに行ったことがあります。そりゃぁもう稚拙なものでしたが、応対してくれた方はとても優しく「今度は16ページくらいのものをもってきてごらん。そしたら増刊号にとかいうチャンスもあるんだから」と、言ってくれました。私はこのときに脱力してしまったんですね(はぁ…もう、しばらくはいいやって)。
だから、恩人坂口尚三がマンガに向かうとき「坂ちゃん、連れてって〜ッ」とはならなかったわけです(笑)。それでも、若い頃にこういったマンガの匂いを少しは知っていたからこそ、後年(40歳近くにもなって、多少頭でっかちになってる)マンガ執筆の依頼があったときに「もしかしたら出来るかも」って思えたんでしょうね。
坂口尚は10年前に、永島慎二はこの夏に鬼籍に入られています。(…合掌)