第1回_

以下は「広場」に連載を始めた 「並木座ウィークリーと共に」 の第1回原稿です。
「広場」の読者だけではもったいないの声(誰の?)にお応えして、月遅れでブログ上にも公開します。
プログラムを紹介してるところは、現物からの要点抜粋ですので嘘はありませんが、自分史的な部分は、50年以上前の私のおぼろげな記憶に基づいていますので、まぁ、フィクション半分?とお受け取りくださいませ。


東京からさほど遠くない地方都市Т市。終戦の当時はまだY町といった。そこの町で一、二を競うほどの割烹料亭「柳葉」の一人息子カズ(通称)は東京での学生時代、勉強そっちのけで趣味の写真(カメラ)と映画に夢中だった。学徒動員もされたが、結核の疑いで療養となり、前線に出されぬままに終戦を迎える。戦争も終わり、さぁ、これからは料亭を跡取り息子に譲って…などと考えていたであろう両親に、「俺はもう一度東京に行きたい。しばらくの間、好きなことをやらせてくれ」今も昔も甘い親はいるもので、「じやぁ、もう少しな」。しかし、順風かに見えたこの料亭商売も、戦後の激変する社会に機敏に対応できなかったのか、急速に経営が悪化していく。「倅よ、戻ってきておくれ」「まだ出て来たばっかりじゃないか」「お前の助けが必要なんだよ」「だったら、もう料亭なんかたたんで東京へ来ちゃいなよ」「そんな、おまえ〜」なんという親子でありましょう。いや、親の甘さは尋常ではない! だって、この跡取り息子は戦後すぐに、親が段取りした縁組にのって結婚し、男の子が生まれたばかりだったのですぞ。「なにを夢みてるんだ! 父親にもなったというに。このバカモンが!」と一喝できなかったのですかねぇ?「俺は東京に行く。子供の面倒は頼む」ですぞ。いまだに許した理由が理解できん。そう、残された男の子というのが、今これを書いている萬雅堂であります(笑)。
 さて、東京に出たカズはいったい何をしていたのか? ずっと後年の息子(私)の詰問にも、のらりくらりとするばかり。ただ、映画関係の仕事に就きたいという希望は叶った。そのきっかけが、豊島園で催された或る夜の野外映画会(そう、立てた柱の間に幕を張って…という懐かしの例のやつです)。上映中に映写機の故障。騒ぎ出す観客。さぁ、困った。その場に技術屋さんが居なかったのか、これでは再開は不可能…というときにたまたま居合わせたカズが登場!「私が直しましょう」「おお、助かった!」映写機は見事に復活して、映画会は無事終了。「あんたはいったい?」「なぁに、名乗るほどの者じゃござんせん。じゃ、あっしはこれで」…とはならず(笑)、その場でその野外映画会の関係者にスカウトされ、池袋の映画館の映写技師の職を得た。…というのだそうです。どこまでがホントの話やら。まぁ、映写技師になったのは事実だから、一応そんなこともあったのだと信じておこうか。
 たしかに機械の扱いには長けていたのでありましょうか、優秀な映写技師としてひっぱりだこだったんだぞと常々申しておりましたから。きっとカズは自信満々「これで大丈夫。料亭の立て直しなんてヤメヤメ! 一家揃って東京で再出発だ! 財産処分して出て来いやぁ〜」と、Y町で待つ両親を説き伏せたのでありましょう。こうして、私の就学にタイミングを合わせる形で、一家は料亭をたたんで上京してしまうのです。昭和二十七年晩秋のことでありました。……ナンジャラホイな出だしでありますなぁ〜。
 で、その約一年後の昭和二十八年秋、銀座の並木通りに邦画専門の映画館「並木座」が開館の運びとなります。この映画館がどんな経緯で作られたのかは先般刊行された「銀座並木座」(嵩元友子著・鳥影社)に詳しく載っているので省略。まぁ、当時の日本映画関係者のクロスオーバー的な協力と尽力によって実現したとだけ書いておきます。その「並木座」の初代支配人Sさんが、映写技師長にと白羽の矢を立てたのが、私の父のカズだったのですね。前述の本に、オープンの日に劇場玄関前で撮られた記念写真が載っていますが、藤本真澄プロデューサーやS支配人と共に若きカズの姿を見ることができます。
 さて、ここでようやっと「並木座ウィークリー」となるのですが、私の目的は、父が所持していたプログラムの1号から100号を、何らかの形で「広場」の皆さんにご紹介できたらということだけでした。ところが先日ビッグニュースが飛び込んできました。この秋に銀座で開かれる「並木座・回顧展」に併せ、この「並木座ウィークリー」の復刻版刊行が決まったというのです。それもちょうど私の所持と同じ1号から100号までの! さらには私もその編纂に協力します。編者の手元の歯抜けの号を提供し、完全版に仕上げるためです。なんと嬉しい私の役割でしょう。ですから、プログラムの中身を私がつたなく紹介する必要はなくなりました。どうぞ、表紙の画像提供程度で「お役御免」とさせてくださいませ。
●1号は田村泰次郎のエッセイ(「羅生門」のことなど)とパリのスケッチ。ベニス映画祭で「羅生門」がグランプリを獲って以来、ヨーロッパでは日本映画に注目が集まっている。なのに大映はじめ、各映画会社の対応の遅さはなんとも嘆かわしい…というような文ですね。ページをめくると、上映作品「幸福さん」(東宝映画)製作・藤本真澄、原作・源氏鶏太、脚色・井手敏郎、監督・千葉泰樹、主演・三津田健の「解説」と「物語」/源氏鶏太の映画随筆/マキノ光夫(東映専務)の「並木座にのぞむ」/最終面に「観客席」というお客様の声のコーナー(この号では募集告知)と「支配人室」と名付けた編集後記。このプログラムは、細長い一枚の紙を左右に開くという体裁で、毎号、全6ページの構成になっています。(1953・10・7)
●2号は池部良の「並木の感傷」(スケッチも)
上映作品は「あに・いもうと」(大映) 京マチ子の主演。(1953・10・14)
●3号は「かわはぎ」(えと文)伊豆肇
上映作品は「広場の孤独」(新東宝) 佐分利信の監督・主演。(1953・10・21)
●4号は「りんご」(えと文)清水将夫 これがユニークなことに「並木座ウィークリーの表紙を描く約束をしていたのに、急なロケに出ることになって書けなくなった。すぐに帰るが来週にしてくれないか」というハガキの文がそのまま掲載され、しかもそのハガキに描き添えてあったリンゴの木の絵が採用となっている。「せっかく五色に彩色されているのに一色の印刷で貴方に悪い。良い絵なので無断で採用しました。悪しからず」とコメントされています。可笑しい!
上映作品は「蟹工船」(現代ぷろ) 山村聡の監督・主演。(1953・10・27)
(つづく)