第2回_



銀座「ハウス・オブ・シセイドウ」での「並木座」回顧展の開催がいよいよ10日後に迫りました。準備の方々、今ごろ大変だろうなぁ。プログラム復刻版の刊行は間に合うのかしら…。
以下は月刊「広場」に掲載の「並木座ウィークリーと共に」(第2回)の月遅れ転載です。


さて、第2回です。はやくも何を書いてよいのか…「並木座」開館の時の私は小学校の一年生。父親の職業が映写技師であることさえ知らずにいたというのが正直なところでしょう。田舎で祖父母と暮らしていた私にとって、身近に居なかった父親の存在はもともと希薄だった。上京してからは一緒に暮らしていたはずなのに、帰宅も遅かったりして、たまにしか顔を合わせていなかったのかもしれないな。実際、このころの自宅での父子としての記憶が無い。しかし、並木座に行った記憶は有るのですよ。ただ、観た映画が何故か記録映画「白鷺城(姫路城)」。きっと併映のものだったのでしょうね。調べたら当時の姫路城は修復工事の真っ最中。その修復の様子を撮った映画だったのかもしれません。「邦画専門名画座」と名乗っていても、劇映画を一本上映するだけではなく、併映として最新版の「讀賣ニュース」の他、中篇、短編の記録映画やディズニーの短編アニメなんかも上映していたのです。小学一年生に劇映画は無理ですよね!親に連れられて行ったにしても、おとなしく観ていられたはずは無い。そんなときは映写室の横の事務室かなんかで遊んでいたのでしょうね。
この幼い当時で私が鮮明に覚えているのは、並木座ではない銀座のもっと大きな劇場(どこかは不明。日劇とかテアトル銀座とか言えればいいのでしょうがねぇ…)に「ダンボ」を観に行ったときのこと。劇場の周りの行列と間近で見るスクリーンの大きさに驚いたっけ。このとき一緒だったのは父ではなく祖父だったような気がするな。サーカスのテントの中、ダンボが空中を飛ぶシーンが脳裏に焼きついています。併映は「こぐまのボンゴ」。この一輪車乗りのシーンも懐かしい。ネット検索してみたら、この「ダンボ」の日本公開は1954年3月ですって。やはり私が一年生の終わりの時だ。アメリカでは1941年(「ボンゴ」の方は1947年)です。
というわけで、私個人のネタが見つからないまま第5号から8号のご紹介。え、それでいいって? はぁ…それではどうぞ。
あ、申し遅れましたが当時の「並木座」は毎週水曜日が作品切り替え日です。
●5号の表紙は市川崑の「エンド・マーク」(えと文)
上映作品は「雨月物語」(大映
監督・溝口健二 撮影・宮川一夫 主演・京マチ子森雅之
解説に、第十四回ヴェニス映画祭の銀獅子賞第一席を受賞とある。
この年のグランプリの金獅子賞は該当作なしだったので、実質この映画祭のナンバー1だったことになりますね。
清水千代太の「ヴェニス映画祭に出席して」という文がキネマ旬報からの抜粋として掲載。
津村秀夫の「溝口健二の幻想」というエッセイは、かつて溝口が無声映画「滝の白糸」の冒頭で、旅芸人が乗る馬車の前をイタチが横切るシーンを撮りたいと言い出した。「イタチを連れて来い」との厳命に右往左往するスタッフ。たとえイタチを確保できたとしても都合よく馬車の前を横切ってくれるのか…そこで、スタッフは猫に絵の具を塗って代用しようと決め、溝口にお伺いを立てると、「私の欲しいのはイタチだ!猫はイタチではない」とプイと出て行った。それきりイタチの話は出ず、冒頭シーンは変更された。…というもの。笑える! (1953・11・4)
●6号は小林桂樹の「セビロ」(えと文)
作品は「君の名は」第一部(松竹)
原作・菊田一夫 監督・大庭秀雄 主演・岸恵子佐田啓二
プログラムには松竹取締役の野口鶴吉が寄稿して、「松竹映画は平均していい成績を上げる作品を作るが、大ヒットが少ない」そこで何とかと物色中、放送中の「君の名は」を取り上げ、これを三部作に計画した。これが予想をはるかに超えて未曾有のヒットをしたのである。単行本も五十万部を突破した。放送、出版、映画という文化機構が一つになり、映画会社の中でも製作、営業、宣伝が完全に歩調を合わせて成果を挙げた。もし、他社で製作されてもこれほどのヒットは出来なかったと付け加えたい。…と自画自賛しておりますねぇ。 
対して、─愚民政策と「君の名は」─ という長文を寄せているのが東京朝日学芸部の井澤淳です。「君の名は」を嘘っぱちなメロドラマと断じ、女をバカにしていると。権力者は再軍備憲法改正を為すためには女を無力化することだと知っている。この映画は今日の政治権力者のために絶大なサービスを行い、なし崩し再軍備に協力しているPR映画というべきものだ。云々。…うーん、けっこう過激な文章です。
で、プログラムの末尾に藤本真澄が書いています。
「君の名は」を名画の特選を看板とする「並木座」で何故上映するのかという投書が五通も来た。この映画が名作の内に属するか如何かは問題であるが、戦前戦後を通じて最大の観客動員したことは事実である。今後この記録を如何なる種類の映画で破るかが日本映画の製作者の今日の問題である。日本映画の今日の知的水準を知る意味で並木座で上映することは決して無意義ではないと思う。 (1953・11・11)
●7号は「自信と勇気」菅井一郎(えと文)
作品は「夜明け前」(新東宝
原作・島崎藤村 製作&脚本・新藤兼人 監督・吉村公三郎
主演・滝沢修小夜福子乙羽信子
表紙の菅井一郎も出演しており、その文は「夜明け前」の興行成績が芳しくなかったことについて。映画に関係ある者が誇って良い作品であるにもかかわらず…
という嘆きのよう。これは今に通じる永遠?のテーマですね。
エッセイが「明治の女お粂に扮して」乙羽信子 と
新藤兼人君」吉村公三郎 の二本。 (1953・11・18)
●8号は「銀座の夜」越路吹雪(えと文)
作品は「旅路」(松竹)
原作・大仏次郎 監督・中村登 主演・笠智衆岸恵子佐田啓二
中村登君にのぞむ」藤本真澄
「自作を語る」中村登
もう一つ、「映画ファン教育」(無記名)がユニーク。「沢山映画を観るのは結構だが、暇だからとつまらないのを承知で観に入るな。あなたの時間つぶしが製作会社をもうけさせることになる。そんな程度で客が来るならと良心的な企画に益々頭を使わなくなり、結局は日本映画を少しも向上させないということになるのです。」
末尾の「支配人室」という編集後記に、「君の名は」は日頃あまり映画をご覧にならない方が多かった。 とありますから、この記事は連動してるのかな?(笑) (1953・11・25) つづく