雲上人会議と「広場」到着_

月刊「広場」11月号

予定を一週間早めて「みそひともんちゃく」雲上人会議が行われた。
場所は開祖・増岡弘(マスオさん、ジャムおじさん)の主宰する劇団「東京ルネッサンス」の高円寺稽古場。
出席は残念ながら半数。議題は来年の例大祭の件。何せ今度は第三十回、そう、三十(みそ)なのだ。どうやって盛り上げるか、ここは雲上人たちの腕の見せ所です。頑張らなくっちゃね。
帰宅すると月刊「広場」11月号が届いていた。
表紙は福島二朗さんで、題して「時代の会話」。ここは何処なのでしょうか?
手塚プロの小林準治氏の連載「手塚先生の想い出」が最終回を迎えた。
33回もの長きにわたりお疲れさまです。先生の日頃の姿が窺えて実に面白かったですよ。
近々刊行される「手塚治虫クラシック音楽館」手塚治虫+小林準治(平凡社)も期待しています。
手塚治虫クラシック音楽との関わりを解き明かすという、小林氏でなくては叶わないであろうこの本は、まさに「広場」の連載記事がきっかけなのだから、大したものです。でも、印税なしとは…(涙、涙)「会社の仕事にしちゃうからだよ」(陰の声)。
では、連載から本になったのではなく、本からいただいて連載中の「並木座ウィークリー」と共に、第16回です。


 タツノコに入ってからのことはまたいずれ書かせてもらうことにして、今月は高校生の頃の私とカズの交流?話をひとつ。
 それは映画を離れて「ボウリング」のこと。
 昭和三十六年(1961年)後楽園ボウリングセンターに日本初のオートマチックマシンによるレーンが登場。それまでの倒れたピンを従業員が自らセットしなおすという、なんとものどかなシステムが終りを告げ、一気にボウリングブームの幕開けとなりました。流行りものには敏感な遊戯興行界です。都内のあちこちに次々とボウリング場が造られていきます。
 カズの働くY手興行もさっそく芝白金に「白金ボウリングセンター」をオープン。このボウリング場は山手線の目黒駅から目黒通りをまっすぐ明治学院大学方面に進み、国立科学博物館附属自然教育園の並びの、現、都営三田線「白金台」駅の辺りにありました。白壁の三階(四階だったか?)建てで、レーン数はさほど多くはなかった(忘れた!)が、目玉はその最上階を都内で最初の室内アーチェリー競技場にしていたこと。これもオートマチックで、矢の刺さった的が手元まで戻ってくるというシステムです(自分で抜くのだ)。機械はボウリングと同じくブランズウィック製。カズは移って間もない「大井スズラン座」支配人からまたしても異動となり、この「白金ボウリングセンター」の支配人となったのだ。まぁ、お忙しいこと!
 映画三昧、マンガ三昧で楽しい日々を送る私に、もう一つの「お遊び」が増えたのです。こりゃたまりませんって!「うわぁ、やらせて、やらせて!」となりますわな。(もちろんアーチェリーもやったけど、今ひとつ惹かれなかった・笑)。
 休日には二時間、三時間待ちなんてザラという時代です。いくら支配人の倅でも順番を割り込んだり、安くやらせて貰うなんてわけにはいきません。しかし、そこは抜け道、営業時間が終ってからのレーン調整・整備の時に、息抜き?を兼ねた従業員に混じって、いくらでも好きなだけ投げさせてもらえたのです。もちろんタダ。そりゃ、毎日じゃありません。せいぜい週一くらいですが、自由が丘の家を夜に出かけて終電で帰る。カズの親バカによって当然の如く提供してくれた私のマイボール(14ポンド)、マイシューズがカズのロッカーに入っていますから、いつも手ぶらで出かけるという、お気楽高校生でした。時には同級生を引き連れて「いい顔」させてもらったり(そんなときにはなぜかカズも現れて、自分も投げたりして、「おまえの親父、いい親父じゃん!」を演ずるのです。ヤレヤレ)。私のスコアはというと、たまに200アップもして、アベレージは160くらいだったかな…(おいおい、ホントか?)。このときのボールとシューズは、硬いマイバッグに入って今も自宅の物置に在る。ほこりを被って金具は錆びて、もう骨董品みたいなモノですね。ボールの穴は自分の握りに合わせてあるし、今でも使えると思うんだけどなぁ。
 このボウリングブームはしばらく続きました。日本プロボウリング協会が設立されて、ゲーム中継のTV放送が始まった昭和四十年代の数年間は絶頂だったんじゃないのかな。私も当時のスター選手の一投一投に声援を送ったものです。時にパーフェクトなるか!なんて日にゃ、自分のことのように興奮して。岩上太郎、矢島純一、西城正明、中山律子、並木恵美子、須田開代子、石井利枝、野村美枝子なんていう懐かしい名前がすぐに出てきますね(女性の方が多い・笑)。
 カズの支配人業もしばらくは落ち着いて、このボウリング場に専念です。Y手興行は映画業界に通じる会社ですから、俳優や、歌手、タレント、喜劇人など、ボウリングのとりこになった芸能人がずいぶんと常連になっていました。カズはその内の幾人かとはやけに親しくしとりましたよ(ちゃん付けで・笑)。
 後年、私がタツノコから虫プロに移った時に、アニメーターたちの親睦ボウリング大会(たしか「どろろ」班だ)を、この「白金ボウリングセンター」で開催させてもらった。富士見台から白金なんて、今考えるとずいぶんと遠い。いろいろ便宜を図ってくれてたんだろうけど、みんな、ありがた迷惑だったんじゃないのかなぁ(笑)。
 ところで、もう一つのアーチェリー場の方はというと…目論見は見事に外れて閑古鳥。いつの間にか撤退、改装となっておりました。
 では61号から64号の紹介。
●61号 扉は 色紙に書かれた石坂洋次郎の句で「生甲斐や 雪は山ほど 積りけり」 
上映は ☆石坂洋次郎選集?☆ として、初めの四日間が「思春の泉」次の三日間が「青春無銭旅行」で、原作・石坂洋次郎 脚本・舘岡謙之助 監督・中川信夫 は共通。
「思春の泉(草を刈る娘)」(俳優座・新東宝提携作品)
主演・左幸子宇津井健岸輝子千田是也
〈解説〉
東北の或る山麓の村では、一年分の馬草を刈る為に毎年、一週間から二週間、高原に小屋掛けする草刈隊をおくる。ここに突発するユーモラスな恋愛事件を、軽快巧妙なタッチで描くもの。
「青春無銭旅行(石中先生行状記)」(新東宝
主演・宮田重雄/和田孝/小高まさる/東野英次郎
〈解説〉
石中先生の若き日の青春行状記で、当時先生の故郷の中学生の間で流行した無銭旅行がテーマとなっていて、地方色豊かな物語を展開する。
☆同時上映「白き神々の座」(記録映画)
製作・毎日新聞社 企画・ヒマラヤ登山後援会 監修・日本山岳会 撮影・依田孝喜 演出・高木俊朗 語り手・宇野重吉
〈解説〉昭和二十八年、二十九年の二回に亘って、マナスル征服を試みた日本登山隊の奮闘を天然色映画に記録したものである。ブルー・リボン 教育文化映画賞受賞。
映画随筆〈並木座ウィークリー〉(第六十一号)
呉服屋の二階で ─「思春の泉」雑記─ 中川信夫 
〈支配人室〉
招待券をご利用の方が月末にドット来られて入場者の半数以上になる事があります。どなたも月始めに朝の空いた時間にご利用をお薦め致します。(1955・2・9)
●62号 扉は「佐久間発電所計画一覧図」※主上映作でなく、併映である記録映画の関連資料を載せているのが面白い。
上映は「愛すればこそ」(独立映画)
製作・伊藤武郎/松本酉三/糸屋寿雄/山田典吾/能登節雄/嵯峨善兵/粕倉昌美/浅野龍麿/若山一夫 
脚本・新藤兼人/山形雄策
・花売り娘・
監督・吉村公三郎
主演・乙羽信子/町田芳子/神田隆/殿山泰司
・とびこんだ花嫁・
監督・今井正
主演・香川京子内藤武敏高原駿雄/井手忠彦
・愛すればこそ・
監督・山本薩夫
主演・山田五十鈴岸旗江中原早苗久我美子山村聰
〈解説〉
「独立プロの灯を絶やすな」という合言葉のもとに二人の脚本家、三人の監督、五大スターが出演し、映画界、劇団の多くの人が協力したオムニバス映画。
☆同時上映「佐久間ダム」(配給・東和映画)
企画・電源開発株式会社 製作・岩波映画製作所
脚本演出・高村武次 撮影・小村静夫 音楽・伊福部昭
〈解説〉
最大の規模と難工事とされる天竜佐久間ダムの工事完成までを記録するイーストマン・カラー作品一連の第一篇である。東南アジア映画祭で非劇映画部門の最高作品賞並にキネマ旬報ベストテン(非劇映画)第一位に入選した文部省選定映画である。
〈映画評紹介〉  
映画の見方にも色々あると思ふが、悪い点を批判する前に良い所を見て生活の糧としたいものである。以下は「愛すればこそ」の、朝日、読売、東京、産経、報知の新聞五紙の映画評の要点だけを集録した。観客各人各様の御批評の参考とされたい。(略)
〈支配人室〉
場内にポスターが張ってございますが藤本プロダクションで第一回自主作品俳優座提携の「煤煙」(成瀬巳喜男監督)の出演女優を募集して居りますから、奮って皆様方の応募をお待ち致して居ります。並木座事務所でも出来るだけ御便宜を計ります。
※さすが藤本真澄が興した名画座!(1955・2・16)
●63号 扉は 有馬稲子の詩とカット
※〈支配人室〉によると「東宝の撮影所で、撮影で忙しい中を昼休みを利用して書いて戴いた」とあります。
上映は「川のある下町の話」(大映作品)
製作・藤井朝太 原作・川端康成 脚本監督・衣笠貞之助
主演・根上淳有馬稲子山本富士子/川上康子
〈解説〉
川端康成が「婦人画報」に連載、好評を博したもので、衣笠貞之助監督の現代劇演出は久方振りで、その成果が注目される。
〈映画評紹介〉
清純な物語は認めていい(朝日新聞評)
題材の割に描写が平板(東京新聞評)
衣笠貞之助むかし話…「十字路」(キネマ旬報一〇八号より) 
〈WIPE〉
松竹の大谷竹次郎氏と大映永田雅一氏が今回勲章をもらった。
満腔の讃辞を惜しまないものである。かつては活動屋と言われ水商売と言われたんですからね。(1955・2・23)
●64号 扉は 北原三枝(え…直木久蓉)
北原三枝木下恵介監督の命名、本名は荒井まき子ですって。
上映は「月は上りぬ」(日活作品)
企画・日本映画監督協会 製作・児玉英生 脚本・斉藤良輔/小津安二郎 監督・田中絹代 
主演・笠智衆/山根寿子/杉葉子北原三枝安井昌二三島耕佐野周二田中絹代
〈解説〉
田中絹代監督第二回作品。日活専属スターを抜擢起用することで、スター難の日本映画界に新しい方向を示唆するものとして注目されている。
★「女性の目から見た男性を」 田中絹代 
〈映画評紹介〉
手堅くまとめる(東京新聞評)
精魂傾けた田中絹代朝日新聞評)
〈WIPE〉
デコちゃんこと高峰秀子さんが突然婚約を発表した。彼女にとって数えきれぬ程の受賞よりこれが最高の〈賞〉となろう。おめでとうございます。(1955・3・2)