「げんば日本昔ばなし」_

「世界に冠たる…」井口亮

「猿地蔵」は私にとって番組が3ヶ月で終了後、9ヵ月後に再開が決まったパート2の最初の担当作品なので、余計に意気込んでたのかもしれません。
ご紹介するのは、初期のそんな熱気を感じることが出来る一つの記事。載っているのは放送メディア業界誌「放送文化」(NHK出版)です。放送100週を迎えた頃に書かれたものですから、パート5(’77・4〜9)の時だ。29年前!先ごろの片付けをしていた時に、コピーしたものが出てきました。書いたのは、当時の毎日放送テレビ編成部の井口(いのくち)亮さん。
◎おたくのお子さんは、ほんとによくおできになってうらやましいですなーといわれてニッコリ図にのる”よい子のパパ”みたいに、ぼくは担当する「まんが日本昔ばなし」についてひとにしゃべるときは、おく面もなく”世界に冠たる”というまくらことばをつけてしまうのです。


という出だしで始まる「世界に冠たる…」と題された、井口さんのこの記事は、グループ・タック富士見台スタジオの、現場からの経過報告というつもりで、当時のチーフディレクター前田庸生さんのしゃべりを聞いてもらうという構成になっています。
長文につき、以下は抜粋(と、私の要約)の前田さんの語りです。
 
◎パート1(’75・1〜3/24本)のころ、「桃太郎」っていう話があったときに、ぼくやっぱり、コンテ見てドッキリしたし、演出(児玉喬夫さん)の方も「こんなのしかできなかったんだよねー」って。「桃太郎サン桃太郎サン」といった調子とはホド遠い…、あそこでおさえなきゃいけないなと思ったんですよね。やっぱりアニメらしさというものをおさえようと。ひじょうにデザイン的でしたからね、あのままデザインを勝たしてしまうとひじょうに冷たいものになってしまうんで、昔ばなしのもってる暖かみをアニメの中に求めてみようかっていう観点で、じゃぼくが作画をやりましょうってんでやったんです。長編のタイミングを全部とりいれて、いかにデザインであろうとも、時間っていうか、まあいっていうんですかね、動作のまあいだけは生身のまあいを入れたんです。それがあの作品の成功なんですよ。あれが生きてきたんですね、デザインが。あれをデザインだからといって省略した動きをすると、ひじょうに冷たい画面になったところを、ねばっこいあいだを入れて、そこでひとつのアニメならではの現実感をもたせたっていうことなんです。(略)パート1のころっていうのはてさぐり状態だったから、ほとんどの作品にそういう穴埋め作業っていうのをしてるわけですね。(略)個性強くするとやっぱりあるていど見る人から離れていってしまうところをアニメーションでつなぎとめていく、キャラクターでひっぱっていくという趣向で、なんとかかんとか十大昔ばなしをひっぱっていく…だからその、話のネタには困らなかったんだけど処理にひじょうに問題があった。ただ「笠地蔵」がひじょうに優等生であがったことがわれわれを電波に乗せる功労者になったわけだけど、ほんとにあれだけがいちばんすなおにあがった。
 パート2(’76・1〜6/新作40本)になってくると処理はこんどはひじょうにいい、こう感動できる話をたくさんそろえたんです。その感動できるがためにね、ちょっと希薄になりがちだったところを美術でカバーした、画面の雰囲気で。まだまだ20本30本40本の段階はやっぱりまだみんな、そうとうのパターンを考えられるらしくって、パターンでおしきっちゃったんです。いろんなパターン、二度と同じテはないというぐらいパターンもっていってつなぎとめた。話にはそれぞれの絵があるだろう、話にはかならずそのいい絵が一枚ある、その絵はなんだろう、ぜんぶちがうはずだってことから、手法、技法ぜんぶバラバラにしてって、さあ、あんたは次は何をやるか、何を出すかっていうふうに演出や美術のみんなに問いかけていった。それで作ったのがあのバラエティショウで、ぜんぶちがっていますよ。で、それのもうやりたいだけのこと、できるだけのことぜんぶやったつもりでいますからね。
 で、パート3(’76・7〜9/20本)。これはちょっと怪談を入れたということで、ちょっとまあショックになったんだけど、ぼくの考える昔ばなしというのはパート2で終わりで、パート3に入ったら、民話、まあ日本のお話という考え方にしようというふうに考え方かえたんです。(略)こんどはもっともっとダイナミックに工夫をたてさせようということで「止め絵」っていうのを入れたわけです。大冒険でやった、止め絵でやるなんてぼくはドキドキですよ。これはまあ手法的に飛躍していることもあって、まあアニメーションの開拓っていうことがあるのと、アニメーションの動きの性質を分解するということもあって、こんどはまったく新しい手法だからみんな血眼になってそれやるわけです。そこにひとつの情熱がでてくる、というふうに、まあ、なんらかの情熱をこう、かえながら作っていくわけですね。
 で、パート4(’76・10〜’77・3/40本)は、さらにアニメーションのバラエティもぜんぶおりまぜて、民話の、ギリギリ民話までをやりつくそうということで、これでやめるつもりで始めたんですね。この話も民話にしあげよう 、この話も民話にしあげようと、しあげる段階、かえていくやり方にひじょうに苦労がある。(略)まぁパート4の後半から、ぼくらがでっかい壁にあたったのは、技法と感性の限界なんですよ。要するに風景がおもいうかばなくなったんですよ、もうかきつくして。
 それで、今のパート5(’77・4〜9/40本)というのがその成れの果てで、あのー、使いまわしをはじめたり、それからこんどは取材ですよね。これが出だしたのがパート5なんです。で、取材でいちばん効果的だったのが「鶴柿」。あれはやっぱり風物詩にしあげた。風物詩にしあげたってことで現地取材はかならず必要になっちゃったんです。(略)ほんとうに八代(山口県)へ行って、八代の田んぼをみて、その田んぼを自分なりに感情表現の手段として紙にかきうつしたときに、ひとつの作品はできあがる、それに気がついたんですよ。(略)いつも見てる山とかいつも見てる鉄筋コンクリートの中ではなんにもでてこなくなっちゃう。ぼくらが民話をさがしながら、っていうのは、民話のことばを探すんじゃなくて、民話の風景を探しながら歩いて、その感動した画面に自分の話をぶっつけるということでつくっていくわけです。
 パート1から2、3、4と、ひとつひとつ、こう手法的には限界をふんでいってるわけで、その限界のつまるところが個人にかえっていった。個人、演出家個人の感性ですよね。そうなってくるとこんどは無限にひろがっていくってところがあるんじゃないかというんで、パート10までいきましょうかって話になるわけなんです…


ここからは井口さんの締めの言葉。
 
◎と、まぁ、これを読まれたかたには何のことだかわけがわからんということになって申しわけがありませんが、この前田青年を中心とする現場の人たちのまじめさや熱気が少しでも感じとっていただければありがたく思います。(略)この番組の場合は、直接ものを作る現場の人たちひとりひとりの感性や個性や情熱が番組の魅力、生命力の大きなみなもとになっていることはたしかだと思います。放送業界の体制がこういったものをどこまで大切にしていけるかが、こんごの放送文化の生命を左右する大きな条件になるのだろうとも思えるのです。

 
…どうです?素晴らしい記事でしょう!。ということで、このまましまい込んでおくのは余りにも惜しいと、要約してでもお伝えしたいものだとご紹介した次第。井口さんと前田氏には無断だけど、一般に販売されてる雑誌の記事だからお許し願えると甘えます。前田氏には「そんな、昔のしゃべりを出すな!」って怒られるかもしれないけどね。当時、現場にコピーが配られたんだから仕方がないよ(笑)。
私としては再度、当時の雰囲気と共に毎日放送の番組担当のこの方の顔が懐かしく思い出されます。もう退いておられるのでしょうね(あのころの部下が、今は重役となっているんですもの…)。
※ところで、こういったことからも、先日の文化庁の人名表記がいかにいい加減か、腹が立つのも分かるでしょ?!
一部専門家もアンケートに応えるだけじゃなく指摘しろや、知ってるんだから(笑)。