お詫び_

篠沢虎之助(明治8年)

昨日、白虎隊士の末裔の方々と歓談。
過日、この日記に書いた、白虎隊士「篠沢虎之助」のお孫さんの奥様の一年忌です。案の定、「白虎隊」の話題も出るわけで、私も貴重な資料の数々を見せていただきました。そして、私はおおいに反省させられるわけであります。
ここに、私の思い違いも含め、不正確な情報を基に書いた部分を訂正いたします。
先ず、虎之助が士中二番隊を途中から指揮した「篠田儀三郎」と従弟というのは正確ではない。生き残った虎之助は、儀三郎の叔母の娘(いとこの「ステ」)と三年後に結婚していた。二人は同じ歳。それ以前の、篠田家と篠沢家自体の姻戚関係は定かではない。
虎之助が市中一番隊で殿の警護に回っていたというのは間違い。
殿のお側にいたのは六歳年上の兄「篠沢虎之進」だった。で、虎之助はやはり「士中二番隊」三十七人の内の一人。篠田儀三郎が率いたグループ(二十人)とはぐれ、数人の仲間と山中を彷徨、翌日城に戻ったのである。
虎之助が書き遺した士中一番隊、二番隊士全員の名簿(コピー※原本は県に寄贈)を見せてもらった。
そこには各人の出処(誰それの長男、次男、年齢)とか、戦死、病死の別とかも書かれ、中で目を惹くのが「屠腹ス」の文字。つまり、篠田儀三郎指揮下の飯盛山で自刃(切腹)した十九名の名前の上に、その文字が書かれているのです。屠殺の屠に、切腹の腹。「屠腹」って言ったんですねぇ…。数え年十七歳が書いたとはとても思えないその筆致を目の当たりに、私はクラクラする思いでした。
こうした貴重なものを大切に保管されているお孫さん自体、実は凄い人生を送っておられるのだ。
東大在学中に海軍航空隊を志願、パイロットとして特攻出撃(いわゆる神風特別攻撃隊)の直前に終戦。出撃予定前日のことだったとか!白虎隊士虎之助同様、奇跡的に生き延びたんですねぇ。今は悠々自適にすごされている。
そして、家系図によると、なんと奥様は「ステ」のお兄さんの「武之助」の曾孫!!見事なり、会津藩武家社会の結束!
あと、虎之助が「西南戦争」で戦死した場所は阿蘇の坂梨峠で明治十年四月十三日(享年二十五)。銃弾が射抜いた胸のポケットの手帳は警察手帳でなく「従軍手帳」の方(ともに警視庁に寄贈)。
「白虎隊」をキーワードに、たくさんの方がこの日記を覗かれたご様子。それらの方々に向けても、不確かな情報を載せてしまったこと、重ねてお詫びしします。
写真は郷土史誌にも掲載された、警視庁巡査時代の明治八年に撮られたもの。中央が虎之助。左右は会津藩以来の同志。